●進化
イッパンジンとチンパンジー
オラ、ウータン
よーし、進化しよう!
*進化とは過去に拘らないことだと思う。
●直線
これまでの『わ』は
不完全な『わ』であったのだろう。
『わ』のつく事柄はどれも不完全だ。
和平も和解も平和も完全ではない。
自然界と人間界の『わ』もうまくいってない。
そのせいでコロナのようなモノが出てきた。
これまでの社会生活も経済もダメージを受けている。
『わ』のない分断も激しい。
人類の最大のミスは
「未来は豊かだという幻想に向かって
直線的思考をいつまでもやっていることだ」
これは『わ』ではない。
●磨く方法
”完全な『わ』”は
磨くべきモノである。
でもどうやって磨けばいいのか?
そこで古今東西の本などを読んでみる。
知恵者たちが何かの窓を開けようとして
奮闘した言葉がいっぱいある。
読んでいるうちに
”完全な『わ』”のことを言っているように
思えてくる部分が多々ある。
いや”完全な『わ』”の方が
先を行っているぞ!
なるほどこうやって磨けばいいんだ。
●ポンポン
この間の材木を薪割り。
久しぶりの斧にワクワクする。
材木はさくらんぼの木と違って
斧一撃で割れるので心地よい。
薪棚の周りの草を抜いていたら
ポンポン毛玉を発見。
なんじゃろこれ?
ピンクや薄い緑の毛玉。
こういう可愛い毛玉を身につける女子は多い。
中を割ってみたら種のようなモノがあった。
でも硬くないから種ではない。
虫の卵?
調べたらハエだった。
ヨモギに寄生するハエが葉の裏に卵を産む。
その後、親のハエがこのポンポンを作るのか?
それともヨモギがこのようなものを作らされるのか?
ポンポンの中は雨や風や雪に当たらない。
食べ物は植物からポンポンの中に入ってくる。
快適そのものだろう。
ポンポン女子もそんな感じかも
寄生されないように注意せねば。
●ブルー
薪用に材木カットしていて
いつもやってくるチョコが来ない。
もしかしてと探したら家にも庭にもいない。
逃亡防止ネットを見回したら穴があった。
探しても探してもいない。
SSが「作業場は見たの?」という。
ずっと作業中だったから
いないはず。
見たら、
あっ、いた!
ワシの椅子で寝てる。
全く、いつの間に。
写真は逃亡防止ネットについていた
ノブドウの実。
ブルーって美しいと感じる。
なぜだろう?
空とか海という深淵さを感じさせるからだろうか。
●霞
真理とは
「確実な根拠によって本当であること」とある。
若い頃はこのような真理を追求することに
時間を費やしていた。
仙人のように霞を食えばいいから、
金を稼ぐのは二の次だった。
だから就職もせずに
毎日が創造の日々であった。
生きていたのだから
霞を食っていたのかもしれない。
そして今
こんな素晴らしい個展を開かせていただいた。
ありがたいことである。
それに”完全な『わ』”も発見した。
実は真理こそが霞であったのだ。
●猫神様
これら猫の作品は
”完全な『わ』”の前段階にあたる作品である。
猫作家のきっかけとなった作品が
『猫神様』という高尚な仏像と
庶民の招き猫の合体作品。
言葉は悪いが高尚と低俗の『わ』である。
反対の概念が『わ』になったように思えるが、
実は高尚も低俗も無くなり
平等になったのが『猫神様』なのである。
●渾沌神
雅叙園展示風景の一部。
これは渾沌涅槃図です。
荘子の書いた『渾沌の死』という詩から。
『渾沌には目鼻などの七つの穴がない。
これでは見いたり聞いたり食べたりできない。
そこで二人の帝が
渾沌に宴のお礼のつもりで
毎日一つずつ穴を開けた。
渾沌は七日目に死んでしまった』
という話です。
初めて読んだ時、
とても複雑な気持ちになった。
そこからの発想です。
周りにはその死を十二支が悼んでて、
その周りで百の猫が悲しんでいます。
●千の福ねこ展
今日から開催。
『千の福ねこアート展』
◉猫の一生、誕生から天上界まで◉
約千体の猫作品を展示いたします。
場所:ホテル雅叙園東京 百段階段
2020年10月23日〜11月23日まで
よろしくです。
●新しい風
チェンソーの刃を新しいのにした。チェンソーとはこんなに切れが良かったんだと感心してしまった。材木の玉切り、大汗かきながら子育てというものを考えてみた。
子育てが大変だ、とかいうけど、そうだろうか?
余裕がない、とかいうけど、そうだろうか?
子育てだけでなく、世の中に大変で無いことなどない。すべてが大変だ。
人はペシミストになりたがる。ほとんどは妄想である。自分のペシミスト妄想にみんなが目を向けてくれる。自分を中心に世界が回っているように感じる。それが満足を与える。ところで妄想を抱いている本人は妄想に気づかない。だからやや慎重に真実を小声でばら撒くしかない。
実は子育てにしろ他の仕事にしろ何もかも大変ではない。妄想に執着するからこそ余裕がないのだ。世の中に余裕のある人などいない。皆妄想で心がいっぱいいっぱいなのだ。妄想の嘘に気づけばいい。そこが空っぽになれば新しい風が自然に入ってくる。それは心地よい可能性の風だ。風とは隙間さえあれば入ってゆく。風とはそういうものだ。
ところで兄の奥さんが、ワシに「子供ができて、育てられなかったら、あたしが育てるから」と言っていた。兄の奥さんは三人の娘を育てた。安心できる力強い言葉に感じた。聞けば子育ては面白いらしい。これが余裕の言葉だ。ワシにとって作品を作るのが面白いのと同じことだろう。作品制作も他の人から言わせれば大変な作業だ。なるほど、そのようなものなんだろうと世の中全ての大変なことに対して高を括ることにした。
●奪う・与える
昨日は姪夫が薪の玉切りに来てくれて思った以上に捗った。これは感謝だ。しかし嫁と子供二人連れ。嫁もまだまだ子供で子供三人付きという感じだ。ワシの体を気遣って薪割りしてくれるというから頼んだけど、さすが子供らには疲れた。自分で薪割りした方が遥かに楽。だからもう頼まない。
薪割りだけとか、何か悩みがあったり、話をしたい時に来るのは別に問題ない。でも慣れない子供の世話は体力も精神力も奪われる。姪には大人になれと言いたいね。『奪うで疲れさす』ではなく、『与えるで喜ばす』を身に付けることだ。『奪う』のは子供や自己中心的な人のやること。あとは泥棒がやることだ。それと人間は自然から奪いっぱなしだ。返すことを忘れてないか? それが『与える』だ。『与える』ということは個人の問題だけでない。人類の問題でもあるのだ。でも始まりは内面からだ。それがどんなことなのか深く考えるべきだ。
親が子に『奪う』ではなく『与える』を見せれば、そこに感謝は自然に芽生えてくる。子は親を真似る。
30も過ぎ、これから多くの他人に会ってゆくだろう。ある意味、ワシも他人だ。見返りをあまり考えずに些細なことでいいから多くの人に『与える』ような人を目指しなさいな。
奪って幸せは来ない、来るのは孤立。返せば和になる。与えることこそ幸せへの一歩ですよ。
*写真は楽しそうだけど、いやいや疲れましたよ。ヘトヘト。
●既成
”完全な『わ』”はアートではない。アートという定義がイマイチわからないが、たぶん違うだろうと、まぁ定義があったとしてもそれに合わせる必要はない。別に自分は既成の何かになりたいわけではない。既成のアーティストになりたいわけでもない。
社会とは既成の何かでいっぱいで会社の社員や政治家のように定員があって先の人がいなくなって新しい人を埋めているように見える。先の人を蹴落としてその席に座るもののようにも見える。
そうではない。すべては川の水のように留まることなく動いていて、僕らがその川を見ているわけではなく、その川の中にいて、実は川から生まれて川になって川を流れている。もうそれに成っているのだ。だからわざわざ成っているここから逸脱して哀れにも既成のモノになる必要などどこにもない。成っているそれが合わなければそれは既成の何かだろう。既成などやめればいい。やめても川の中を流れ成っているわけだから何も問題は起ころない。かえっていい流れを掴んで喜べて幸せも掴むだろう。
●宝珠
”完全な『わ』”は
アートの制作過程から生じたもので、
観念が先にあってできたものではない。
見たことのないダイヤモンド以上の鉱物が
目の前に勝手に転がってきたのだ。
「これ、何?」と、
その珍鉱物をネットで調べても
どこにも詳しい内容はない。
まだ言葉になってないものだからだ。
ならばこれを磨いてみようと
言葉を紡ぎ出している。
想念ではなくアートという作品でもなく、
磨くべきモノだった。
●金と縁
自分のこの生活をスローライフと言われ、それってなんだろうと考えてみた。
草刈り、雪かき、池掃除、薪割りと季節に追われ、この他に収入を得るための仕事だってやらねばならない。最近は個人的な収入から程遠い研究のような”完全な『わ』”の作品制作もやっている。全然スローじゃない。他人にとってこれがスローライフというものに見えるのは、田舎にいて仕事以外の収入にならないことを楽しんでたくさんやっているからだろう。
そこで自分を振り返ってみた。ワシは仕事の時間を働き盛りの時の半分にして、その他の時間を季節労働にしている。暇を持て余している隠居とは違う。つまり暇などなく時間に追われているのだ。実は自分の時間などほぼない。
ただこれで満足なのは、ワシはお金稼ぎの時間より、意識的にお金と縁のない季節の労働時間の方を重要視しているからだ。わざと金にならないことを選んで、季節に身を委ねているのである。だから草刈りも薪割りも他人には任せられない。その労働こそ心身ともにお金が纏わりつく忙しない社会そのものが頭の中から消えるからである。もしスローライフなるものがしたいなら、季節と関係なくてもいいから、お金と縁のない労働に身を任せることだろうと思う。『金の切れ目が縁の切れ目』という。そんな偽物の縁、さっさと切れたほうがいい。
●高校生
「すべての人は世界を変えたいと思っているが、自分を変えようとは思っていない」とトルストイは100年以上も前に言った。今も社会を変えようと思っていても、自分を変えようとはしないから、人はあいかわらず成長していないのだろう。
人は学校制度のせいか、知性の成長は高校生ぐらいで止まっている。優秀な者でも大学受験まで。それ以降は変化するよりも知識の蓄積に専念する。社会でいまだに学歴社会が通用するのは、知性がここで止まっている証拠だろう。テレビでは知識の多さを競い合っている。それに大人になっても高校生の性質の暴力や暴言で物事を解決しようとする。優れた知性の人やリーダーシップの取れる者はどうかというと、自分の都合のいいように社会を変えようとするけど、やはり自分を変えようとはしない。個人の変化は内面ではなく、嗜好や表面上の考え方ぐらいなものである。だから現代人の知性の成長は高校生で止まっていると言える。年寄りも「若いね」と言われ喜んでいる。問題はこれが世界の不幸の元だということ。この不幸、高校生に解決させたほうがまだマシかもしれない。
●ノコギリ
姪っ子の旦那35歳が、
リモートワークで
パソコンの前から離れられなく、
体が鈍って困るから、
来週、薪割りを手伝いたいと申し出てきた。
薪割りはワシの楽しみ。
でもそのうちワシがダメになるから
今のうち伝授しておかねば。
野球をやっていたというから
ガタイもいいし筋肉もある。
ところが、去年
彼にオノで薪割りをやってもらった。
子供二人も作ったのに
腰が引けてて下手っぴ。
ところで今は
薪割り前の玉切りの段階。
チェンソーは刃が欠けているので、
使わしたくない。
そこでノコギリ登場。
しかしノコギリでは難儀この上ない。
そこでワシが材木を
電ノコの刃が届くところまで切る(写真)。
あとはノコギリで汗かいてもらおう!
●エウレカ
科学の新発見は
「研究中や実験中に偶然発見した」とよく聞く。
”完全な『わ』”も偶然の発見だ。
まさか自分の身にこんな図が降ってくるとは
予想だにしなかった。
これでわかったのは、
新発見はどこにでもある。
川にもあるし、猫にもあるし、薪にもある。
ある意味、そこらじゅう新発見だらけなのだ。
足元にあるのが一番手っ取り早い。
問題はそれに気づかないということだ。
気づいても無視する。
使い古された概念で考えてはダメだね。
●猫ドア
チョコが猫ドアを
ぶっ壊すほどの勢いで入ってくる。
何度も修理したが
とうとう完全に壊れた。
とりあえずプラダンで工作(写真)。
そして2週間後。
やっと新しい同じものが届いた。
設置完了。
●永遠
”完全な『わ』”ができて、これが究極だから、もうやることもない。この後は一体何に制作意欲や情熱が湧くのだろう? もう隠居かなと思った。ところが言葉になってない図だから言葉にしているうちに、閃きがしょっちゅうやってくる。どんな問題でも解けそうな勢いだ。
そうか、”完全な『わ』”は閃きのスイッチだったのだ。暫くはこうやってずっと閃いてゆくのだろう。閃きが尽きたその先はわからないが、究極は終わりではなく永遠であることを知った。
●超える
そういや昔、猫界のプロデューサーの板東さんに「猫神様を超えるもの」と言われた。ある作品でヒットしたミュージシャンや小説家が次の作品をディレクターに要望されるようなものだ。これを求められた時はずいぶん悩んだものだ。しかし超えるようなものはないのだろう。いわゆる猫神様を最高だと思うことで、これが絶対的な存在になってしまった。人は絶対を欲しがるがこの世に絶対などない。だからこれを超えるものを作ったからと言って、なおもこの要望「それを超えるもの」は続く。満たされることのない我欲というものだろうかね。そのためにずっとヒット曲を考え続けなければならない。それはある種社会の一部と化し、技術は向上し、反復的で機械的な作業になってゆく。終わりのない輪廻にハマってしまったような…
ところができてしまったのだ。
”完全な『わ』”だ!
死ぬまで続くはずだったあの「それを超えるもの」という問いが”完全な『わ』”で消滅した。
●本
”完全な『わ』”の図と
この図から得た考察をまとめて
本を作るつもりです。
図を見ただけでは
ただの絵として見てしまう。
そんな絵は真似すれば
誰でも描ける。
示したいのはそこではない。
やはり言葉が必要なのだ。
薬の使用説明書みたいなものですね。
万能薬なのに使い方がわからない。
薬を見てキレイだけではどうもね。
飲まなきゃね。
真実を知るには
見る・読む・体験する。
図ができるまでの過程を言葉で追随してほしいのだ。
とりあえずワガジン10にするけど、
個展だけで販売します。
来年ね。
●雅叙園個展案内
『千の福ねこアート展』
◉猫の一生、誕生から天上界まで◉
約千体の猫作品を展示いたします。
場所:ホテル雅叙園東京 百段階段
2020年10月23日〜11月23日まで
猫アートの分野を創り28年、多くの猫作り手も増え、関係者やギャラリーも増え、多くの猫ファンに支えられてきました。猫も家族の一員となり、猫を中心にみんなで創り上げたものです。この展示会は猫の集大成です。だから『猫の個展』です。
「人は子供の頃は子供ならではの悩み、青春期には青春ならではの迷い、壮年期には仕事での苦しみ、そして老年期には死について思い煩ったりします。人はその都度、苦悩から逃れようと何かにすがるものです。癒されたいものです。今回の作品展はそんな人の一生の苦悩を取り除こうとして生まれた喜びや楽しみや和みや深みや恵みの作品です。どうぞ『千の福ねこ』を堪能なさってください」
*私はコロナ禍ゆえ、今回会場に顔を出しません。
ついでに来年まで外出はやめております。
益々精進するつもりです。
よろしくお願いいたします。
https://www.hotelgajoen-tokyo.com/100event/neko2020
●脱習慣
”完全な『わ』”の図はできたし、『わ』論もほぼ完成したのだが、なぜか毎日膨らんでいる。
ところでここ数ヶ月、文章制作に小さい頭脳に知らなかった知識をふんだんに入れ込み、ない頭をフル回転させていたので、多少賢くなったが、夏バテにはなるし、体力ゼロ。夏バテになって環境から変えるんだとエアコンや庭改造などを考えていたが、そもそもの問題は身体だ。頭、精神、身体、環境、社会これらは一体だ。社会を変えても己を変えねば何もならない。
そこで生活スタイルを一変することにした。運動、食事時間の変更などなど。習慣を脱習慣し新習慣したのだ。
とりあえず体力づくり。先月からウォーキングを始めた。何と! 去年から庭以外歩いてなかったことに気づいた。これじゃあバテるわ。それに人の住む家が小さく空が大きい。
よく1日一万歩とか言うが、人によって違うだろう! ワシは腕立てなどちょっとやれば筋肉がつく体質だ。だからウォーキングも千歩で普通の人の1万歩に相当すると思っている。そしたら嫌いなウォーキングも意外や意外、楽しいではないか!
風が心地よいしいい汗かくし少しずつ増やしていこうと思う。
●完全
『すごい・わ』は却下です。
これまでの論考を
『すごい・わ』で読み返すと
「すごいわ! すごいわ!」という合いの手が聞こえて
どうも拍子抜けする。
そこで完全な『わ』なのだから
”完全な『わ』”と改めました。
これで伝えやすくなった。
まあ感情的には「すごいわ!」ですので
見て感心したら
小声で「すごい・わ」て言ってください。
●すごい
新発見の
『わじんのわ』だけど、
『メビウスの輪』のように
シャレのつもりで
自分の名前をつけたけど
あまりに個人的なので、
一般化することにした。
とにかく
すごい『わ』なので、
『すごい・わ』に名称を変更。
発表は一年後です。
すごいでしょ?
●倍返し
さてずいぶんと人間は欲張って壊してバラバラにしてきた。そろそろ『治す』ことだろう。電気を作っている火力は燃やすものを自然から借りているが、もう燃やせない。水力は水を自然から借りているが、もう津波や洪水で恐怖だらけだ。原子力はウランを自然から借りているが、もうほとんどない。焼き回して使おうとしているが、それは一部にとって都合良過ぎる理論であって成功虚しい。まあ人間はいつだって自分の都合だけで自然から勝手に借りている。風力にしてもソーラーにしても自然から借りている。借りたら返えすのがルールだろう。これだけ借りっぱなしなのだから倍にして返えすぐらいの気持ちが大切だと思う。食うだけ食ってうんこしないようなものだ。それは病気だ。『治す』べきだろう。