●ミーコラージュ MeCollage
魂による時間の上の自分を再構成したアップサイクル的コラージュを制作してみた。これを『ミーコラージュ』MeCollageと名付けた。略して『ミーコラ』。「Meコラ!」と自分を叱っているような。自分大切と自分戒めの両極端の意味合いがあっていい感じだ。MeTooが盛んに言われる今、嫌がらせ側が内省しているMeコラ!は必要だろう。
ハラスメント(嫌がらせ)する側が、Meコラ!を理解できればいいのだが、なぜか石のような思考は理解や変化を無視していろんなところにぶつかり壊しながら転がり続ける。彼らはこれまで自分の身の回りに言葉や力を並べ自己正当化の石の擁壁を作ってきた。井の中を蛙のように擁壁によって外が見えないから大海を知る由もなく、自分が己を上回るエネルギーを持ったと錯覚する。その錯覚エネルギーが優越感となる。裸の自分を見せたくないといっぱい服を着ているようなものだ。他人は彼らの服の中をほぼ想像しているのに自分では気づかない。中にあるのは劣等感というものだ。優越感とは見せかけのもので、時間や所が変われば消えてなくなる不安な幻のようなもの。問題はまやかしの優越感の内に密かに潜んで居座る劣等感だ。劣等感からの錯覚エネルギーはそれほどでもない。随分と犠牲を払ったが全体的には非常に少ない変化をもたらすだけだ。世界は優越感という服の色が変わっただけで、あいも変わらず暗く澱んだ可哀想な劣等感は居座っている。人が優越感を見せびらかす時、影のようにくっ付いている暗い劣等感も一緒に見せびらかしてしまうので、さもしさが露わになる。劣等感は自分以外の誰かに優越性を発見し、それを追い求めたところから生じる。自分の中の劣等感のもっと奥にある自らのエネルギーは隠されたままだ。さてここに多様性を持ち込んでみよう。多様性によって優越感という中心志向が失われ、当然裏の劣等感も消える。全ては剥がされ己のエネルギー源を見ることだろう。
ところで昨今はもう一歩先に変化したようで、多様性をセーターに喩えるなら、此れ幸いと蠢き出した虫たちがセーターを食い穴を開ける。禁煙嫌煙喫煙犬猿喧々タバコの焦げ穴、知性は面倒と捨てられ感情がむき出し引っ掻き傷、セーターはボロボロだ。これらによってまたも多様性が分断せざるを得ない状況だ。
その打破が『ミーコラージュ』なのだ。