●in
『個人主義』は英語でindividualismだ。前にも書いたが、もう少し深く考察してみた。
『個人』はindividualだ。dividualは「分離した」という意味で、これにinがつくことで否定になり、「分離できない」になる。また『自立』はindependent、dependentは「依存」で、それにinがついて否定になる。
つまり重要な『個人』や『自立』には本来の単語がなく、反対のものの否定系で成り立っている。「分離」や「依存」こそ『個人』や『自立』を否定したもののはずなのに。
ところで否定の接頭辞にはdisやunなどあるのに、なぜinなのか? inには「中に包まれる」という意味がある。
坐禅のあの妙な足の組み方が浮かんだ。左の太ももの上に反対の右足を乗せ、右の太ももの上に反対の左足を乗せ包み込む。まさしく否定して包み込むinのポーズだ。
英語にこんな言葉があること自体が不思議に思ったので、この間アメリカで出家したばかりの慈慶さんに聞いたら「英語の語源のひとつにサンスクリット語がある。仏教の話にちょくちょくサンスクリット語が出てくるんだけれど、ある概念を否定する、さらにそれを否定するみたいなことができる言葉の構造みたい」ということ。面白い!
ではサンスクリット語ではなぜ『個人』『自立』を「分離」「依存」の否定系で表現するのかを考えてみた。個人をin +dividualとすることで、視覚的にも聴覚的にもそもそものdividual「分離」が含まれる。つまりこれによって『個人』が点としての意味合いではなく、肯定から否定へ流れる陰陽の輪の意味合いになる。
これだね。すごいな、サンスクリット語って。だったら日本語も『個人主義』というものを『無分別主義』として考え直した方がいいと思う。
わかったのは、『個人の自立』は世間のあらゆる分離や依存の思考の否定inにあるということだ。
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