透明な二極論
:自分は二十数年前、猫の仏像作品を世に提出し、過去の招き猫の民芸品と一緒に、これから未来まで続くだろう猫界の土台を築いたものの、ここ最近、この猫界が面倒になっていた。自分を守る砦のような猫界であるが、その砦が檻に見えてきて窮屈になっていたのだ。そこで現れたのが猫とは無縁のノリタケの森ギャラリー。担当の方に「猫のもりわじんではなく、もりわじんを全面的に出してください」と言われ、スーッと檻が消え、青空が見えた。まるで芋虫からチョウになったような心地良さだった。しかし芋虫からチョウになる喩えはいいが、芋虫である猫界や自分を育ててくれた親や故郷を侮り、浮き足立って舞いながら、都会でお金や地位や名声などの表層だけ追うようになっても、『地に足がついてない』とは『空しい』ということだ、それを心底感じるだろう。芋虫の食っていたキャベツの美味しさや、空を憧れた当時の気持ちを邪険にすべきではないようにも思う。チョウが卵を産むのはあいも変わらずキャベツの上だ。キャベツという地上もチョウの舞う空も、父と母がいて自分が生まれたように、二つあってこその自分だ。故郷と都会の間に、バカとリコウの間に、金持ちと貧乏の間に、内と外の間に、冷たさと暖かさの間に、右と左の間に、強さと弱さの間に、生と死の間に、二極の狭間や隙間にあるだろう既成の価値基準を無にする透明な道を探求しよう。
(写真:『薬猫神様』長野県大嶋山瑠璃寺所蔵)
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