2017年1月3日火曜日

[5851] 透明な教育論

若い子や隣国だけでなく、日本のオヤジもおばちゃんも礼儀知らずや馴れ馴れしさや自己中が多い。
 それらをシンプルに心の汚れと呼ぼう。
 これは知識の有る無しではなく、センスがないということである。センスは磨けば光るもので、センスがあると言われないのは汚れているからである。
 センスを磨くとは、心の汚れに気付くことで、気付けば汚れは消える。本来なら人はその心の汚れを他人から指摘されるのではなく、自分ではたと気付き、一人で学びセンスのいい人間に成長するしかない。ところがなかなか人はそれに気付かず、落ち込んだり感情的になったりして負のスパイラルに陥り、どんどん汚れてゆく。このままでは人は将来、邪険にされる汚れた醜い爺婆になって、若者に蹴られて命を落とし兼ねない。
 とりあえず今年が干支で生まれ直しのワシは『もとわじん』となり、多くの人の中で気付きながら汚れを落とし、透明な道を歩みながら透明な絵を描く。そこで汚れが他から染み移らないように、時に気になった汚れに対しては汚れを洗う、つまり削除する。人はそれを飲み込み、自分を顧み、大きな気付きを得、新たな『元誰それ』になって、笑顔で社会に再び踏み出でよう。
 人はこの夏に個展会場で『もとわじん』の透明な絵の空間に立ち、過去の汚れた栄光で生きぬこうしていた『もりわじん』が汚れた古い服を脱ぎ捨て『もとわじん』に成ったことから、深い『もり』の湧き水が、一般的な汚れも人工的な浄化という汚染も避け、ゆっくりと慎重に一年を掛けて流れた、その緩やかな溜まりの中で泳ぎはしゃぐ全裸の子らのように、『もと』のままの新鮮な湧き水を心身に浴び、真の心地良さを体験するだろう。センスが身に染みる瞬間である。
 それが『もとわじん』の透明な道であったことを再認識し、それぞれも透明な道を歩もう。

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