2017年1月16日月曜日

[5864] 透明な時間論

●透明な時間論
 次々と思いもしなかった新しい絵が出るので、ふと、これって時間の上にいる、時間を描いているんだなぁと思った。
 この感覚は二十代、絵を描き始めた頃がそうだった。どんどん新しい絵ができるので楽しくてしょうがなかった。未熟だから尚のこと毎日毎日何かにぶつかりそれを乗り越えることで上達していたんだろうと思う。
 ここ数年、時間が見えてなかったようだ。やはり檻の中にいたんだなぁとつくづく思う。檻の中でいろんなことをやるが、やはり生きているというよりはメシを食うため、経済に囲われていた。まあメシを食うことは大事だから、それが生きることではあるけど、時間は止まっていたようだ。自分で作った観念という檻の中にエサを得るために住む。それが時間を止めることだった。エサに事欠かない不自由な家畜のようなもので、そのうち檻の中で殺され他の動物のエサとなる。でも思えば、それはある完成までの道筋の一部分で、必要な閉じた時間檻だったのだろう。例えば、山形の山寺には千段以上の長い階段がある。途中に広い所がありそこで「たまこんにゃく」を食って休む。それからまた上る。
 上る時が来たのだ。さて箍(たが)を外そう。時間は再び動き始めた!

0 件のコメント:

コメントを投稿